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米島酒造

蔵の歴史

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 ▶蔵の歴史

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初代

田場良徳

 

 

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二代目

田場庄次郎 

 

 

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 三代目

田場 弘

 

 

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四代目

田場俊之

 

 

 

米島酒造の創業は1948年、琉球政府時代の下、初代田場良徳は、7名の仲間と共に「米島興業合資会社」を設立しました。


設立当時の久米島は、造り酒屋が4社も在りましたが、アメリカ軍と一緒に洋酒文化が島を席巻した時代だったので、流れに逆らう形で容易なことではありませんでした。
(現在では久米島島内の造り酒屋は2社になっております。)


1962年、運営や酒造りが上手くいかず、初代田場良徳だけが残り、個人会社として米島酒造を存続させました。
それからも日夜試行錯誤した酒造りが続きました。
やがて着実に泡盛が売れ始め、島民の多くが愛飲し始めた頃、初代は体調を壊してしまい入退院を繰り返します。
当時31歳で水田農業を営んでいた2代目田場庄次郎が酒造りに入る事になりました。
(実直な2代目で酒質の向上に励み、酒造りも順調に拡大を始めます)。


1967年、酒の出荷も大きく伸び、当時の全盛期を迎えた頃、以前とは味の質が変わった酒を出荷してしまい、信頼を失う事になります。
その後、信頼を取り戻すまでに長い年月がかかり酒の出荷も止まり、倒産寸前まで落ち込みます。
(当時、良徳69歳・庄次郎37歳の時でした。)


1986年、当時36歳の3代目田場弘が、窮地を助けるため、酒造りに入りました。それから徐々に酒質の向上と共に人気商品となる、4合瓶久米島30度を発売。
(地域の人たちと一丸となって酒質開発に取り組み、徐々に信頼も回復し昔以上の島酒として愛飲され始めます。)


2000年、20歳の4代目田場俊之も酒造りに加わり、親子3代の三人四脚での酒造りと研究が進みました。
この時に後の「美ら蛍」となる「久美の月」が発売されました。
現在の米島酒造は先代の苦い経験を忘れる事なく、人の味覚の繊細さを痛感し、手間と時間を掛け妥協しない酒造りを続けています。
今日では小規模生産ながらも製造の8割が久米島で消費されるまでになりました。
これからも皆様に美味しく飲んでいただいていることを誇りに思いながら、先代から引き継いだ熱い思いを胸に泡盛造りに努めて行きたいと思っております。

 

 

 ▶米島酒造周辺の古い写真

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・1960年頃の写真。この橋の正式名称は「小港橋」で、戦前から通称「めがね橋」と呼ばれ、現在でも補強されて残っています。橋の上を走っているのが当時の米島酒造のトラックです。 ちなみにこの橋は、戦時中米軍が補給路を絶つ為に数日間にわたり、何十発も爆弾を投下したのに一発も当たらなかったというすごく幸運な橋です。

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・1966年の写真。バイクに乗っている男性はなんと米島酒造の二代目庄次郎当時36歳の頃です。泡盛をバイクに乗せて配達している様子です。この頃はまだ復帰前で島の人口も今の約2倍近くいて、大変賑やかだったそうです。(2012年2月末人口8614人)

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・1999年の写真。看板の前に立っている男性は、米島酒造の2代目庄次郎69歳の頃です。シーサーは地元の久米島焼きで後ろに見える緑はアセロラの木です。(今でも実がなるとおやつになっています)

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・1999年の写真。この年までは大きな目印になる壁がありましたが後ろに見える瓦の家の老朽化とシロアリ被害が深刻だった為、取り壊して現在は駐車場になっております。(大きな目印が無くなって来客が迷うことが多くなりました)

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・1960年頃の写真。満潮時に米島酒造の門前から見た写真です。この当時は目の前に海が広がり、満潮時に蒸留粕を出すと魚が多く集まって来るので、地元の漁師と時間を合わせて網を広げて漁をする景色が観られたそうです。(今は健康に良い「もろみ酢」やおつまみに合う「もろみ酢昆布」に活用しております。是非お試し下さい。)

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・1960年頃の写真。米島酒造の裏山から撮った景色です。手前に流れている川が浦地川になります。その先に架かってる橋が通称「めがね橋」です。当時、洗濯などはよく浦地川で行なわれ、周辺住民が集まって賑わっていたそうです。

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・1960年頃の写真。現在の米島酒造と大田交番の間を通っている道です。石灰岩の道がつづき夜は月明かりに白い石灰岩が際立つので美しく、ハブがいると発見もしやすいので意外と夜道では、舗装された灰色のコンクリート道路より石灰岩の道の方が安心です。この道も季節になると夜は久米島蛍でいっぱいだったそうです。

 

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・1960年頃の写真。米島酒造の門前から東に向かって撮った写真です。左手奥に見えるのが通称「めがね橋」で中央奥に霞んで見える山がアーラ岳です。

 

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・1960年頃の写真。米島酒造の門前から見た景色です。この時は干潮時で目の前に見える島は正式名称「精川島」で通称「ガラサー山」と呼ばれ、緑に包まれた岩山にたくましい男性の象徴のような岩礁が天空に突き出し、別名「男岩」とも呼ばれ名所の一つにもなっています。豊作祈願の拝所として聖地でもあります。「ガラサー山」の名称の由来は、日暮れになると、多くのカラスが寝どこを求めて集まることからカラスの方言名、ガラサーの名前がついたと言われています。

 

 


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